2012年7月25日水曜日

塚田有一さん企画展のお知らせ



我々の仲間で、響会でも日本の古来の歴史に基づいた話と
素晴らしい生け花のライブを見せてくれます塚田有一さんが、
エキシビジョンを行います。

詳細は下記のとおりです。

月日:7月24日 10:00〜8月10日 18:00
場所:オカムラ ガーデンコートショールーム 
〒102-0094 東京都千代田区紀尾井町4-1 ニューオータニ・ガーデンコート3F
http://www.okamura.co.jp/company/topics/2012/2012spaceR.php

オカムラデザインスペースR 第10回企画展の開催のご案内です。
皆さまのご来場を心よりお待ちしております。

企画主旨:第10回オカムラデザインスペースR(ODS-R)は、
基本コンセプト「建築家と建築以外の領域の表現者との協働」に従って、
建築家の平田晃久氏とその協働者としてフラワーアーティストの塚田有一氏を迎えます。

タイトルを「Flow-er」と決め、
昨年12月から打ち合わせを重ねてガーデンコートショールームに、
水と植物を用いて、われわれの記憶にねむる原風景としての大きな花のような、
あるいは優しい里山のような風景を現出させます。
タイトルは、溢れる水と植物の力で現れる原風景を意味するものです。

ODS-Rでは毎回、
「いま、あなたの建築設計で最も関心があって、
この場で実験的に挑戦してみたいこと」を建築家にお願いします。
そのことによって、インスタレーションの中に、
建築と風景の近未来を表現しようとしています。

平田さんは、構成要素が積極的に「絡み合う」状況にチャレンジしたいと、
その思いを述べています。
建築的な仕組みの表層に水や植物を絡ませるのは、そう難しくない。
もう数歩踏み込んで、その場所の空間と絡み合い、
さらに訪れる人々の身体的動きとも絡み合うランドスケープを求めて、
議論の応酬がありました。
そのうえに、今回は、人工化されたオフィス空間に、
「溢れる水と植物の力」を導入することにもチャレンジします。
高度な制御技術が求められますが、制御というよりも、
水と植物の溢れる力を会期中、維持し育てていく技術が必要です。
この方面での、協働者の塚田さんの構想と技術の力が不可欠でした。

平田さんと塚田さんは、
「オフィス空間に、水と構造体と植物がからみ合った、
庭とも建築ともつかない光景をつくりたい。
中央のアクリル構造体を伝って、水が一枚の花のように広がりながら流れ落ちます。
人はその世界に入り、目に見えあるいは見えない様々な流れに耳をすまします。
これは庭師の思考に導かれながら、建築のかたい殻を水の流れの中に解き放ち、
私たちのからだを、変化する水の様態の中に解き放つ試みです」と説明しています。 

(企画実行委員長/川向 正人)

響会 Vol.3 抄録



響会 Vol.3 抄録 2012年6月21日






【この日の響書き】

薬玉(クスリダマ)





【第一部】


生きている中で音がない瞬間は、死ぬまでありません。
音は大気に乗って流れていて、24時間身の回りにあるものです。
私たちは音の中にいるといってもいいかもしれません。
地球に暮らしている以上、音は確かにそこにあり続けるのです。
聴いているか、聴いていないかという話なのです。


さて、今日、みなさんと一緒に
「日本の音」について考えてみたいと思いますが、
ずっと昔から今まで大切に語り継がれてきた音というのは、
間違いなく何かしらの意味があるように思います。


なぜ何千年も前から大切にされてきたのか?
今日はそのことを、
みなさんと一緒に耳を澄ますという体験を通して考えてみたいと思います。






今日の響書き(お品書き)は薬玉(クスリダマ)です。
まずは気持ちを楽にして聴いてみてください。


平安中期、5月5日の端午の節句に、邪気を祓うため菖蒲の葉を頭や体に巻き、
同じように薬を菖蒲の葉でぐるぐるに巻き玉にして、
帝から貴族の人たちへ捧げられていたそうですが、
この薬玉は、蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)などの
草、香料、薬草を錦の袋に詰めて丸く作り、
その下に五色の糸を垂らしたものをそう呼んだそうです。
香草や薬草を摘めて作った玉ですから、まさに薬玉だったわけです。


さらにこの儀式では、約4mの棒に4本の鐘がぶらさがっており、
薬を運ぶ人たちが棒を揺らしながら
薬玉を囲むように鳴らしてゆっくりと歩きます。
叩くわけではなく、儀式のメイン舞台まで歩くときに
その歩く振動などで鳴る音が、この音です。


明治維新まで続いていたそうですが、
この鐘は、楽器で演奏しているという概念はなく、
人間がコントロールし得ない、偶然鳴る音であることが面白いと思うのです。






以前の響会で、藤原氏がつくった風鈴のもととなる
「風鈴(ふうれい)」のお話をしましたが、
調べてみると、この鐘の音には
魔除けとか神聖なきれいなものを包み込むという
解釈があるのではないかと考えています。


日本の文化というのは、こういう叩く鐘の音ではなく、
人間が手を加えない自然に鳴る音に対して、
自分を清めるという感覚を強く持っているのではないか。
揺らいで鳴る音、ぶら下がって鳴る音について、
時代が変わってもどうしても惹かれてしまうものがあるのではないか、
と思います。







音楽の「楽」の話ですが、
この楽という字は草冠がつくと「薬」になるのが面白いですね。

帝が音に守られながら行事が進んでいく、
いわば鉦の音が結界だと思うんですね。
尊いものが現れる事を「御生れ(みあれ)」といいますが、
現れる、あらたまる、新たに生まれる、
つまり再生した帝が配って歩くことはおすそわけ、
これはお年玉と同じですね、くす玉をいただくので、
魂をいただくという意味があったようです。









「くす」は「奇(く)し」で、
「くさい」とか「くすぶる」とか「くすぐる」
などとも通じるようです。
「奇しくも」とか「くせ」なども
その流れだと思います。
「臭い」というのは今では
余りいい香りを思い浮かべませんが、
かつては特別な香りのことだったのだと思います。
楠瀬さんの「楠」もそうですが、

楠木には樟脳にもなる香りがありますね。
薬にもなるその奇(く)すき香りを
そう読んだのではないでしょうか?
かつては神呼ばいをする時に生け贄を燃やしたり、
香を焚いたりしました。








平安時代、節句は節会(せちえ)と言っていました。
いわゆる端午の節供は、中国から伝わった風習ですが、
そもそも日本にも田植えの時期に、
禊(みそぎ)をする風習があったわけです。


先ほども言ったように草冠がつけば「薬」になることからも、
「楽」自体にも薬のような効果が
あったのではないかと考えられますね。
シャーマンが足首や腰に鉦をつけ、踊るとそれが鳴り響きます。
病気になると言う事は悪い霊が憑いたとされ、
そのために音で魔を祓うという事は
色んな民族がやってきたことのようです。





今でも薬玉は「くす玉」という形で残っていますね。
それにしても、いつから「新幹線開通」というくす玉に
なってしまったのでしょうか。
間違っているようにも思えますが、間違ってはいないのです。
これは交通事故が起こらないようにと先に約束させるもので、
「予祝」と言いますが、日本には、祈りを先にして
ご加護を約束させてしまう、
先取りの文化であるのが面白いところです。
このような行事はたくさんありますよ。




菖蒲にこだわる理由は何か、というのも気になるところです。
日本の昔話をひも解いてみると、ひとつは香りにありそうです。
蓬(よもぎ)や菊などもそうですが、香りがあるものには
「祓う」という意味があります。
あとは形ですね。
例えばアヤメの細長く剣のような葉を剣の形に見立てるなど、
植物の何かにあやかって
その力をもらいましょうというのが理由になっているのです。
江戸時代になると兜を飾りますが、
あれはじつは、防護するための武具ではなく、
菖蒲、アヤメなどの花の形を見立てているんですね。






そういった植物と鐘の音には、
関連性はあったのでしょうね。
鐘の意味もアヤメの意味も、
行き着くところは同じなのかもしれません。


鉦の音で祓う、菖蒲の香りやその形で魔を祓う、
お風呂に入ってその力を身体に身につける、
又は酒に浸してその力に肖る、
皆がして来た事を受け継いですることで祖霊とも
出会うことができる、沢山のものに肖って、
そんな時間を私たちは作ってきました。
移ろいの早い季節の中で、行く季節を惜しみ、
新しい季節を迎える時間を敢えて作って来たのだと思います。


おとずれる(おとづれる)という言葉があるように、
音が何か(神様)を連れてくる、
そこは空洞なんですね、音が中で響く。
基本的に「音」という漢字の下の部分は
「口(サイ)」という器で、
そこに何か願い事を入れて使う器のことを言います。
「言」という字は、入れ墨用の針である
「辛(しん)」という字が、
口(サイ)に立ててあるかたちですが、
もし自分の言葉に偽(いつわ)りがあれば
入れ墨の刑を受けることを神に誓い、祈る、
ということなのです。それほど言葉とは重いものだった。








その祈りに対して神様は、
夜、静かな時間に器「口」(サイ)の中で
かすかな音を立てるのです。
その音を聴けるのは限られた人たちではありましたが、
誰しもこうした能力は持っているような気もします。


そこでいうかすかな音というのは、
聴覚で聴いている感覚ではないのでしょうね。
音階とかではない解釈の問題ですよね。


恣意的に音を出すことで何かを敬うとか、
それによってこちらの意思を神に届ける
ということもあったでしょうね。
待つ事もしますが、その前にお供えをしたり、
香を焚いたりして迎えに行くという事もあります。
つまり「場」をしつらえる。
そう考えると、確かに「お供え」というものは
意味があるように思います。
音も香りもお供えも、願いを叶えてもらったり、
指針を示してもらうために天に喜んでもらい、
その音連れを期待する方法だったのだと思います。






それにしても、届けるって、
相当遠い距離のことを言うのでしょうね。
音にしないと届かない、
あるいは音にするから距離が生まれる、
そんな音の見方もあるかもしれません。


ふと思ったのですが、
遠近(おちこち)と音には関係があるかもしれません。
「をちとこち」「をととこと」は対応関係がある?
遠いところに対する音信、見えないものを聴くのが音である、
とも言えるかもしれません。


あともうひとつは、
ぶら下げられて自然に鳴る音に面白さを感じています。
人間の力ではなく、自然に発せられた音であるという点は、
立体的な空間をつくるというか…。


自然の移ろいとか、そういったものをどう察知するか、
そういったことを具現化したのが音なのかもしれませんね。
花も空間を立体化するということだと思いますが、
音も、どう立体化するのか、
そこはとてもクリエイトなことを考えていたんだなぁと思います。







【第二部】


土谷貞雄さんをファシリテーターに、
楠瀬さんと塚田さん三者での対談形式で進みました。




<どれだけニュートラルな状態をつくれるか>


土谷:
第一部はとても盛り上がって、
それぞれの頭のなかで
いろんな思いがあるんじゃないかと思いますが、
第二部ではそもそも音って何だろうということを
考えてみたいと思います。


前回の響会でもそんな話が出ましたが、
音というのは見えないものを形にしてくれているのではないか、
ということです。
空気、エネルギー、兆し…まったく何もない状態に、
音が何かを伝えてくれる、
これは凄いことなのではないかと思うのです。
無意識という言葉があるように自分を空っぽにして、
感度を高めておかないと感じることができないのでしょう。


また今回は、吊るして自然になる鐘の音ということで、
受け身の音ですね。
音には向かっていく音、受け身の音があるように思います。
どちらにしても、行き着くところは一種のトランス状態、
ニュートラルな状態で、
このニュートラルな状態というのは人間にとって
一番強い状態なのではないかとも思います。
座禅を組んだりしますが、
音というものをつかうと意外と早く
そこに到達できるかもしれないですね。


みなさんいかがでしょう?







塚田:
音楽の「楽」という漢字は、
シャーマンが持つ楽器の形なのだそうです。
もしかしたらでんでん太鼓のようなものが
もとになっているのかもしれませんね。
それから「音」で「口(サイ)」という話をしましたが、
器ということは、
入ってしまったら一回一回リセットする必要があるわけです。
自分自身がアンテナとなって入ってくるものを受け取る必要がありますよね。
からだというのはそもそも「空(から)」なわけですからね。

土谷:
空にするから入ってくる、
その空の状態をどれだけ作れるかということですね。


<人の持つ記憶というもの>

楠瀬:
音を扱っていてよく思うのは、音ってなぜか、
どこかで聴いたことあるなぁとか、
何かを思い出させることが多いですね。
いい音というのは、何か思い出す感じがします。

塚田:
自分の忘れたもの、ことが照らされるような感じですね。

土谷:
そう考えると人間のなかにあるDNAのような
ずっと続いているものが、
空気や植物や土…、自然のしくみの中に
刻まれているものと同じだとすれば、
そういったものを感じ取ること自体が
「記憶」なのかもしれませんね。

聴いたことはないけど聴いたことがある
かすかな記憶というのは、
じつは自然との協調の意味があるのかもしれませんね。

先ほど遠近(おちこち)という言葉が出てきましたが、
音というのは時空を超えることができるかもしれません。
自由自在に、
例えば400年前とかの記憶に飛んでいけたりするのでしょう。
知らないのではなくて、人間の原点として、
からだとしては知っていることなのかもしれないですよね。






楠瀬:
知っているんだと思いますね。

塚田:
生け花をやっていて面白いのは、
何かこう、間というか隙間みたいなものがあって、
そこに新しく生まれてくることなんですね。
植物によってエネルギーが違って、
それは花の記憶かもしれませんが、
こちらが意識していないことが出てきたりするので、
植物も何かを引き出しているような気がします。

土谷:音を聴いていて思うのは、
その間、隙間みたいなものが均一ではないということですよね。
時間の流れが一定ではないということに
気づくのが音の世界で、
普通に過ごしてしまうとただ過ぎてしまう時間が、
音というのものに気づくよって
音の高さとか長さとかがどんどん変わって、
その隙間が広がっていく。
だから同じ時間がすごく広くなるし深くもなる。
そんなことが感じられるようになるのが
音なのではないでしょうか。

塚田:呼吸をするということを考えてみると、
吸って吐く、吐くときには話すと聴こえるけど
吸っているときは声が出ない、つまり聴こえないですよね。
でも、たしかにある。
半分の月は、目には半月ですが、もう半分が見えないだけ。
自然の作用というものには、こういった両面性があるのかもしれません。


<東洋人の持つ音を聴く感覚>








土谷:
この間じつはバリに行ったのですが、
朝までずっとケチャをやっているんですね。
観客の問題ではなくて、彼らがトランス状態に入っていくんです。
人間的な、いわゆる属的なものを離れていって、
彼らはシャーマンとなるわけです。
とにかくただ、それをやり続ける。
吊るしているものが鳴るのとは別に、つくっていく、
向かっていく形ですね。


楠瀬:
独特ですよね、東洋人の持つ「反復」というのは。
お経もそうですね。
反復することは何かの大切なメッセージのような気もします。
同じことを何回もやったほうがいいとか。

塚田:
「型」にも通じるものがありそうですね。
能という伝統芸能がありますが、
能はすべて型で表現されているのだそうです。
情感を込めると芝居になってしまうのだとか。
生け花で型の大切さを言われてきたのですが、
最近やっとわかってきたような気もしているのですが、
伝統芸能が何百年も続いているのは型があるからかもしれませんね。

土谷:
僕は剣道をやっていたのですが、やはり型。守・破・離という型です。
最近、型って何だろうと考えているのですが、
ひとつには知識の体系化、基本というのがあるのでしょうが、
本当は創造的になるための一番の基礎なのかもしれませんね。

それから、以前誠志郎さんから聞いたのですが、
音楽っていうのは、始めに音があってそれを模倣して音楽ができた。
だから音楽を聴くっていうことと
自然の音を聴くっていうことはじつは同じなのだと。
例えば、鳥が鳴く声を聴いているから音楽ができた、
ということでしたね。

楠瀬:
例えば、ケチャはそもそも、夜の蛙の声ですよ。

土谷:
そうそう、先日バリに行った際に
ジャングルビラに泊まったのですが、
夜の間じゅうずっと、蛙やトカゲの声がずっと響いていて、
それが朝の5時半ぐらいになるとピタっととまって、
そこから闇がすごい深さで消えていったあと、
静寂のあとに、鳥たちが一斉に鳴き始めるんです。
これはもう幻想的というか、夜から朝になるとき、
生命が沈んで命があらたに生まれる瞬間というのを感じました。
音もそうですが、音に合わせてエネルギーがいつも変わっているけれども、
そこには変わる瞬間というものがありますよね。
まさにリセットする瞬間というか。








塚田:
世界の果てという「果て」は、
「初(はつ)」と同じなんですね。
つまりは、世界の果ては始まりと一緒。
そこが境界なのかもしれませんね。
花が咲いてその果てに実がなる。それを果実といいますが、
「耳」は実(み)のことです。ふたつあるから「みみ」。

楠瀬:誰が合図しているんでしょうね、
誰かがコンダクトしないと、
一斉にリセットするなんて不可能ですよね。それが知りたいですね。

土谷:鳥の大群が右に行ったり、左にいったりするのと同じように、
そこには見えない自然のエネルギーが存在するんでしょうね。
何かは分からなくとも、音に耳を傾けてみることによって、
起きている何かに近づけるような気がしますね。
少なくとも、鳥が一斉に鳴き始める5時半に、
その瞬間に、心を合わせることはできそうな気がします。