2012年4月14日土曜日

響会 Vol.1 抄録


2月に代官山温室で行われ大好評だった響会Vol.1の抄録です。
このほかにも出席者の皆さんからいただいたお話も素敵なものでした。



響会

2012年2月18日@代官山 温室

【はじめに】
この響会ですが、まずは体で感じてもらいたいと思います。

現代は言葉で説明することが多いですが、身体で感じることが重要な気がしています。

この会は誠志郎さんを中心にスタッフが集まって始まった、音を聴いてもらうという、
書道、華道、茶道…といった「道」になぞらえた響道(をみなさんで共有するのが)、響会です。
音に向かい合っていただく貴重な時間になれればと思います。

【楠瀬誠志郎さんの紹介】
1960年生まれ
声楽家のご両親のもとに生まれ本人も歌っているがプロのシンガーをボイストレーニングしたり
一般の方のボイストレーニングもしている。
声を出す事がどんなに気持ちがいいか、というだけでなく会って話を聞くだけで元気になれる方。

【楠瀬誠志郎さんから】
日本には香りがあったり味が会ったり、受け継がれている五感というか、文化があります
海外から比べると日本の音は非常に美しく、(日本の文化は)音に影響を受けているところが大きいと思われます。
いろんなクリエイターの人と出会って、なぜ今でもこの音が受け継がれているのかを考えてみたいし、
音の未来をつくってみたいと考えています。
建築と音、写真と音、すべてに存在するもののひとつとして、みなさんと共有ができたら嬉しいです。

今、日本の音を集めています。
日本の音ってどうしてこんなにきれいなんだろうと思って集めてみたら、共通点をみつけました。
まずはお聴き下さい。



【この日の響書き】
南部風鈴
藤原三代の傑作、名匠熊井流音。1994年の「水風の流鈴」の音源

【音についての解説】
藤原家が守ってきた、現代までずっと聴かれてきた音。

寒い時期になぜ風鈴?と思うかもしれないが、風鈴は夏の風物詩などではなくもともと魔除けとして使われてきた。
風の向きで戦いの作戦を練ったり、音をならす事によって厄を祓うというまさに東洋的な思想のある音。

パーン、ジャーンとかいった大きな音ではなく、風鈴という小さな、きれいな音に託していた。

涼しいなぁっていうのとは違う。

「風霊(ふうれい)」と呼ばれていたもの。風鈴はかなり近代になってからつけられた名称だ。

ただ風霊、風鈴として聴いているとのどかだなぁという印象だが、よく耳を澄まして聴くと
たーりーらーたーという4つの音しか鳴っていないことに気づく。
この4つの音が、独特の日本の旋律になっているのが面白い。
旋律が分かりながら風鈴なんかつくれるわけないと思うし、逆にもしかしたら風霊とか風鈴とか
そういった音を普段日本人が聴いていたから日本的な音階を歌いだしたのかなぁとも思う。

南部風鈴がすごいのは、音が4つしかないということ。他の風鈴は12、14と音の幅が広い
ただ4つしか出ないのに強弱がすごい。
ちょっと叩くときの音と、風がふわっと触れただけの音と、音の強弱たるや、同じ風鈴とは思えない
まったく異なる人格があらわれる。

枕音という瞬間が出てくるが、これは同時に二つの音が出てくること。
ひとつの傘に対して1本しか芯が入っていないので同時に音がなることはまず考えられないのだが…
本当に人間の力では絶対できないこと。

芯と風鈴の微妙な、ほんのちょっとの風の具合でびたっと同時になる瞬間がある。
それを藤原は茶柱みたいな意識を持って「こりゃいい」という縁起物のにおいを枕音に見いだした。

風霊と呼ばれていた時代には数が少なかった。軒先にぶら下げておくのはわずか
風鈴になってから庶民のものになったらしい。

2つ音がなるというのは普通の風鈴には出てこない。

【ディスカッション】

土谷貞雄:
考えてみると音というのを持ち運べるようになるというのはすごい発明だったのかもしれない。

自分を守っているという意識もあった。
守るにしてもジャーンというのとは違ってこんな静かな音が魔除けになるってのが日本人らしくて素敵。
魔除けというよりは自然のリズムに会わせていく調律をするための道具のようにも思われる。
音律としてはとても高いが除夜の鐘とはまったく性質が違う。
風や大気のなかでは高い音のほうがキャッチしやすい、早い。
風の向きを考えていた人にとっては高い音のほうがキャッチしやすかったのだと思う。

戦略をたてるとき、たとえば日本の会社の戦略会議もこういうもので決めてもいいかもしれない。
茶柱が立った!とか。
昔は最終決断はすべてが整った場所で「いけ」と行っていたのではないか。

楠瀬:
どんなところでも日本の音というのはうるさい場所でも聞こえてくる。
うるさい場所でもよし、静かな場所だともっとよし。
滝の音はものすごい音だが反対側から見たら静か。
音には二面性があるような気がする。

昔の人間のほうが耳で聞くのではなく肌で聴いていて、
聴覚っていうのは自分の置きかたでずいぶん聴き方がかわる。
肌感覚で歌を歌ったり祭りの踊りを踊ったり、
耳というのではない感覚で音を聴いていたのではないか。
正しい在り方だと思う。
いい音を聴くとからだの循環がいい循環になっていくような気がする。

土谷:
からだで聴くというのは本当にいいですね。
そこが現代の人は退化しているような気がするがそこができればもっと豊かな人生になりそう。




【塚田有一さんご紹介】
塚田さんは庭師、ガーデンデザイナーで43歳。ワークショップやセミナーで活躍。
「現代の茶人です」
花を生けるのだけれども仕草、作法、話し方、単純にデザイナーというにはちょっと気後れしてしまう
職業としてではなくまさに道として極めようとしている方。
学生時代、禅宗のお寺で修行しながら草月流で花を生けていた。
自分自身を律しながら歩んできた事を感じる。
読書室、月のめぐりに合わせたインスタレーションなども。

【塚田有一さんより】

響とは何だろう。

道を極めようとしているとご紹介いただきましたが、さまよっています。
道って未知なんですよね、未知に向かっていくという感じ。

お二人のトークをうかがっていて、
ひとつは音にスピードがある、速いというお話しがあったが

音の語源は、よくは分からないが「音(おと)」の「と」が「疾(はやい)」という字、そこから来ているのではないかという話がある。
音というのは象形文字でいうと
入れ墨の針だと言われているものが、器(サイ)に入っていて(→器(サイ)の上にあって)、神様に対して祈る。
神様に約束したことをもし自分が破るようなことがあったら罰を受ける、という意味。

神が訪れるは音連れであり、音によって願いが叶うかどうか聞き分けていた。それが「音」という文字の意味。
音というのはまさに耳を澄ます事。
この神様っていうのが「はやい」という言葉がつくことが多い。
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、饒速日命(にぎはやひのみこと)など

いつもそこにいるのではなくてぱっときてぱっと去っていく。
その一瞬を耳を澄まして捉えるというのが日本人の感性。

漢字ではあるけれど大和言葉で共通する意味がきっとあると思う。

「響」っていうことでいうと、語源は「ひび割れる」の「ひび」から来ている。
ひび割れのときの音。
地割れのようなどーんという音もあれば落葉した葉を踏んだときの軽いはかなげな音もある。

響という文字は、
人がお供えした食べ物を盛った器に向き合っている。合い向かって共鳴しているかたち。

【ディスカッションⅡ】

楠瀬:
よく音とは波だというが、枯山水なども波を表現していると思うが「波」については
音って周波数という言葉でも置き換えられる。
ある一定の時間のなかにどんな波のかたちがあらわれるか。
日本は独特なかたちをしている。
西洋は後ろにいくにつれて大きくなる。
第1楽章からはじまって最後には大フィナーレという。
東洋、頭がたてにかーん、しゃん、と動くのが独特な感情性を持った波になっている。

塚田:
庭をつくるときは波長を色々とバランスをとって、整える。

耳という言葉
果実と実
花は鼻
芽は目
「実」って満ちるという意味でもある。花が咲いてその果てに実るから、
果ての音を聴く、ということなのかもしれない。

枯山水も月夜の海であると言われている。
庭をどうして人が作るのというと
それは原郷とか理想郷のようなものを、引き寄せる技術。
縁側に立って、眺めて何を感じるかというと遠い場所、憧れのようなものを感じたいということで
遠くから何かやってくるということなのではないか。

土谷:
音は光と似ている。
光を意識するというのは闇があるから光がある。
色もそう。
いつも出ているプラスのほうに目を向けるが実はその裏側にあるものがすごく大事で、
音も、音が出て聞こえなくなる瞬間、消えると消えないの境目がすごく深くて、
そこに意識を向けたときに音そのものが蘇ってくる。

なにかつくるときは裏側にどれだけ向き合えるかというのは、
日本人の能力かもしれない。

花をいけるときに隙間にいけるのだと塚田さんはいう。
そうすると空間が広がる。

すべてのものが均質でニュートラルに見えている。
時間の刻みは24時間一律になっているけれど自然も空間も一様ではないので
隙間、間を見つけていく。
空間への向き合い方。

見えないところ、闇、隙間に日本があるのではないかと思う。

塚田:
庭の石もそうだが花は立てるもの。
立てるというのは神様を呼ぶための行為。
神様の依り代をつくるというのが生け花なのではないか。

立てると場ができる、空間ができる。
ひとつ立てると次が見えてくる。

闇も「音」という字が入っている。
暗いという字も「音」が入っている。
もともとはやはり願いをするときに音連れを聞くのは明るいところではなく。
聴くの「き」は気持ちの「き」。

暗いと視力以外の神経が敏感になる。
暗い森で動物の気配などを感じて、こっちに大事なものがあると思った。
こうした仕事をしたいと思ったはじまりは音だった。

音。
人間に聞こえる波、聞こえない波。
聞こえない波も人間は感じているのではないか。

石山:
オルゴール、パイプオルガン…そういった楽器や、
ジャングルのような環境だとたくあんの音が内包されていて、そういう周波数をきくことで
血流量が増えたりといった研究がある。
音は元気になる。

塚田:
日本の節供というのは旬のものを取り入れたり自然のエネルギーをからだに取り入れる儀式である。
食べ物を食べるから元気になるというだけではなく、
五感を使って旬を栄養にしていく。

例えば9月9日は重陽の節供があり、秋になって夜露が降りる。庭にある菊に真綿をかぶせておいて、夜露で菊の霊力を真綿に写し取る。それをたもとに入れておいたり、身体や顔をぬぐうことで若返るとされていた。菊は古来よりその香りや、冬でも咲く強い花であり、その黄色は太陽でもある。不老長寿や若返りのシンボル。
菊はくすり。

食べて、匂いで、聴いて栄養にするという儀式が節供やお月見など。

ひとつひとつの所作に音はついている。
音のない世界に生きる事はできない。

土谷:
癒しの音って「律する、覚醒の音」。
例えば座禅を組んでニュートラルな状態、一方で覚醒の状態。
リセットする、気持ちをいったん戻していくということに似ている。

楠瀬:
一番いい癒しの状態が覚醒。
声を出しているとだんだん覚醒していく。

人間は覚醒しなくちゃだめ。
何かが動いていてからだに影響を与えている。
いい状態というのはいい覚醒をしていること。

塚田:
お経もそう。呼吸とうまくあうとからだがどんどん起きていく。

覚醒 みそぎ
場所をいったんあけて、そこに場所をつくる。
人形ってどの節句にもあるもの。人形にケガレを写し、流す。すると「場所」ができる。
きれいな場所に入ってくる。
日本はすきまにいろんなものが入ってくる。
酒の瓶をあけたり、
空洞に神様が入ってくる。

願いをするとすごい勢いでぶわっとはいってくる。
移ろう、移す、器。

日本と西洋の圧倒的な違いがそこにある。



楠瀬:
日本は空洞をつくること。
西洋はレフト、ライト。
日本の音はうしろ。
いい音は後ろでなる。
日本のいい音はうしろでなられたほうがその音の力のようなものを感じる。
背中がわに日本の音はある。
前になってない。
後ろで鳴ると、動けなくなる、手が出せない。

塚田:
古池や蛙飛び込む池の音
芭蕉はかえるが飛び込んだのは見てなくて、気配で感じて蛙飛び込む水の音と言っている。
池と芭蕉が一体となっていないと気がつかない。
後ろからの感覚、というので思い出した。

体感 360度で耳を持つという感覚。
空間全体
後ろの音を聴いてみるといい音が見つかる。

音を聴く事によって身体が発達したり元気になったり
サウンドスケープというワードがある。

氏家:

人の生活のなかに寄り添っていて聴いた人が生活を快適に送れるということができないか、
といつも考えている。

それでサウンドスケープという概念に興味がある。

実はいろんな捉え方があって
音が場をつくる
場が音をつくる
両方あるのだと思う。

楠瀬:
耳を澄ます、からだ全体で聴くという感性をもって、みなさんの力で美しい音を守りながら
何かあたらしいものが生まれるのではないか。

これからの時代には大切なことだと思う。

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